ナンタケットバスケットの歴史

ナンタケットバスケットとは、アメリカのナンタケット島の伝統工芸品です。
ナンタケット島は、マサチューセッツ州ケープコッドから48キロ沖に浮かぶ
氷河が作りだした小さな島で,元々ネイティブアメリカンのワンパノク族が住む島でしたが、
1959年イギリス人に買いとられ入植がはじまります。町がクエーカー教の布教と共に
勤勉なナンタケットの島の人たちは捕鯨を発展させ,島は世界的な拠点となりました。
一攫千金を夢見て、人々はこぞってクジラを捕りに行くことになります。
男性の憧れの仕事、女性はその妻になることが夢だったのです。
クジラからは、大量の油が取れます.電気のない時代、ランプの燃料や工業製品の潤滑油に、クジラの油を使用していました。
一度航海に出たら、2年3年戻ってこない。ヤリで、モリで、クジラを射止めにいきます。
(この時代のお話は、アメリカ文学最高傑作、メルビル「白鯨」に詳しく書かれています。)
賑わいをみせたナンタケット島は、港が整備され、家が立ち並び、経済が発展しました。
そうして捕鯨全盛期の18世紀から19世紀前半繁栄しましたが、石油の発見と捕鯨産業の終焉と共にナンタケット島の繁栄もピタリと終わりを告げます。
人々はだんだん島から去っていき、綺麗に区画された街並みは当時のまま残されました。
手つかずの島だからこそ、他のどの土地とも似ていない独特の雰囲気で静かな避暑地として未だに存在することができたのでしょう。
第二次大戦後、この独特の文化、歴史的な街並み、美しい自然に魅力を感じたニューヨーカーたちは観光で訪れるようになりました。この静かな避暑地は、お金持ちがしだいに別荘として持つようになり、セレブの町として認識されるようになりました。

バスケットの歴史は、捕鯨船から始まります。
捕鯨船には樽職人が乗船し、採った鯨の油の量に応じて樽をその場で組み立てていきます。
その職人たちがフィリピンで「籐」という材料を手にし、長旅最中に暇な時間を利用して樽に編みつけていったのがナンタケットバスケットのはじまりです。
初めの頃は島で採れたクランベリー等入れる雑貨として使われていました。
ナンタケット島は捕鯨が栄えた町です。
その栄えた時代、多くの船がナンタケット島を行き交いました。そうすると何が必要か?
船の安全、海の安全を守ることが必要になってきます。
しかし、ナンタケット島には大変な苦労がありました。
何故かと言うと、、、
ナンタケット島は砂洲のような地形であり、船が浅瀬に乗り上げやすいので多くの事故があったそうです。特に夜は電気のない時代。今のように電気の灯台が海を照らしてくれることも
ありませんでしたし、砂州に灯台を建てることが出来ません。
そこで考えられたのが、「灯台船(Lightship)」。灯台船で町を明るく照らしました。
灯台船は長期に亘るシフトです。灯りを守る以外は船内での仕事が無い為、
その灯台船の乗組員たちが生みだしたものが、「ナンタケットバスケット」なのです。
ですから正式には、「Nantucket Lightship Basket(ナンタケットライトシップバスケット)」といいます。
しかし、灯台船の中での仕事は寒さや孤独との戦いであり、たいへん過酷なものでした。
ノイローゼになる人も多かったと、文献に記されています。(ナンタケット島は、緯度でいうと北海道位の位置です。)
彼らは元々鯨の樽を作ることが出来る木工に関する素質がある人たち。島内でベリー摘みなどに重宝される籠となっていたバスケット。もっと便利に使ってもらえるようにと、編み方もだんだん進化させ、ナンタケットバスケットは、ただ手編みの美しいだけのバスケットではなく機能的に出来ているのは、生活の中から生まれ始まっているバスケットだからでしょう。                                   
灯台船の時代が終わりを告げ、バスケットはナンタケット島の誇りとして、場所を「陸」へと移動させました。バスケット作りが場所を「陸」へと移動させた頃、ハーバード大学を卒業した一人のフィリピン人がナンタケット島に移り住みました。
ホセ・レイズです。
彼は人種差別により望んでいた仕事には就けず、妻の出身地ナンタケットに来たのだけれども、ここでも「教師」という理想の仕事に就けませんでした。
その時、隣町に住むバスケット作りで有名だったミッチェル・レイに出会い指導してもらいます。
元々頭の良い研究熱心なホセは蓋つきのバスケットを考え出しました。
その美しい繊細なバスケットは別荘族の目にとまり、話題のひとつになりました。
「私もホセに作っていただいたのよ」という言葉から言葉を交わしあい友人になるきっかけを作ったバスケットは「ナンタケットフレンドシップバスケット」とも呼ばれるほどになったのです。
そうして、ナンタケット島を避暑地として訪れる人たちはご自分のナンタケットバスケットの オーナーになるために何度も何度も作家を訪ねて素材・飾り・デザインを話し合い、時には1年〜3年も待ち望みながらオンリーワンバスケットと巡り合うのです。
それだけ「愛着」を持って作られるバスケットはポイっと捨てられる存在ではなく、母から子へ、子から孫へ〜と代々引き継がれていくバスケットとなるのです。
鯨で潤った町は鯨の産業が終わるとともに町に人がいなくなっていきました。
しかし、潤っていた時代に綺麗に区画され整備されたために返って今現在、美しいリゾート地としてそのまま残ることが出来、アメリカやヨーロッパのセレブリティーの別荘地、避暑地となっています。
その高級リゾート地でナンタケットバスケットは今も「知る人ぞ知る名品」として愛好されています。




 

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ナンタケットバスケット作家
中村優子

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